2018年10月10日(水)〜13日(土)にジジイと一緒に旅した東北三陸ツーリングの記録をここに少しずつ書いていきたいと思う。
【DAY1】10月10日(水)宮古→釜石
【DAY2】10月11日(木)釜石→気仙沼
【DAY3】10月12日(金)気仙沼→女川
【DAY4】10月13日(土)女川→仙台
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【DAY3】 2018年10月12日(金)気仙沼→女川
気仙沼港から漁船が続々と出港している。その様子をホテルの窓ガラス越しにぼんやりと眺めていた。昨晩の話が嘘であったかのように港は活気づいている。夜は暗くて気づかなかったが更地になったままの場所がここからも多く見渡せる。やはり現実に起こった事なのだ。
漁船が続々と出港していく気仙沼港。区画のみの更地も多い。
朝からシャキッとしたジジイと合流し朝食を頂く。バイキングなので村田さんは相変わらずたっぷりと朝食を皿に盛り、そしてデザートも忘れない。ぼくはツーリング時、朝食は納豆ご飯と決めているが、東北の宿は明太子食べ放題なパターンが多い。明太子が大好きなぼくは、自分ルールを破り、たっぷりの明太子と白いご飯で満足の朝食を済ませた。
出発前にカウンターで福来旗(ふらいき)をお借りし気仙沼の町をバックに復興を願い記念撮影をした。一緒にいたホテルスタッフさんは
「自転車ツーリングで多くの方に観光に来て欲しい」
と言っていた。
そしてぼくたちが見えなくなるまで、福来旗を振り見送ってくれた。
気仙沼の復興を願い福来旗を持って記念撮影。
気仙沼プラザホテルさんには貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。
ありがとうございました。
本日の目的地は女川である。さっそく雨がぱらつく中、社長のブルートゥーススピーカーから演歌が流れ始めた。テンションを上げるためだろう。なんだか急に景色がモノクロになり、古き良き昭和臭を漂わせ始めた。村田さんは「懐かしいねッ」と言ってノリノリだ。坂道も演歌に合わせモリモリと進む。
ツーリング出発前にスタッフからスピーカーの使い方を習っていた社長。
このスピーカーから結構いい音量で演歌が流れる。
45号を南下しているとかつて海岸沿いにあった気仙沼線跡が見えてくる。地図上では線路が途切れ途切れに存在しているが、線路跡やトンネルは植物の浸食によりあと数年もすると何があったか分らなくなるだろう。現在では気仙沼〜柳津間をバスが運行している。このバス専用レーンが何とも自転車で走りやすそうな道なのだ。いつか隣に自転車専用レーンも作って欲しいなと個人的に思うのであった。
かつて電車が走っていた気仙沼線跡。奥にトンネルが見える。
気仙沼線・大船渡線の代わりとなって登場したBRT(バス高速輸送システム)
バスは専用レーンを走行する。
そして至る所に「過去の津波浸水区間」と表示された大きな看板設置されている。また建物にも同様の看板が貼られていた。村田さんは「ずいぶん登ってきたつもりなのにこんな高い所まで津波が来たのかぁ。これでは間に合うはずもない・・・」と言っていた。
左側には民家の屋根が見える。ここまで津波が・・・。
建物2階部分にも津波の到達水位を記す青い表示がある。
歌津館崎の魚竜化石産地に立ち寄りジジイは童心に返り平たい石で水切りを楽しむ。ジジイが子供にしか見えないから不思議だ。天然の鮭を発見した時に、ぼくと社長は大はしゃぎであったが村田さんは登坂中の為、黙々と先に行ってしまった。また地図が更新されていない区間があり、迷った先で震災当時に打ち上げられたままの漁船を発見し胸を痛めた。
水切りを楽しむ社長。村田さんも大はしゃぎ。
天然の鮭を発見して社長とぼくが大はしゃぎ。
清水浜にて。あの時から時間が止まっているかのようだった。
ジジイ一行は13時前に南三陸さんさん商店街へ到着した。ここは東日本大震災で被害を受けた志津川地区のお店が集まり、仮設商店街として開設後、2017年にオープンした商店街である。
ここではお目当ての「キラキラ丼」を頂く。キラキラ丼とは季節により内容が異なり、地元の四季折々の魚介を味わえる商店街の名物である。このキラキラ丼を求めて県内はもちろんの事、全国からも大勢の人が食べに来るという。さらにキラキラ丼加盟店での提供の為、お店によって味も内容も異なる。社長と村田さんは目をキラキラと輝かせ「弁慶鮨」さんへ入っていった。
ここで提供されていた秋のキラキラ丼は「はらこ飯」であった。炊き込みご飯の上に鮭と宝石のようにキラキラと輝くはらこ(いくら)が鎮座ましましている。本当においしいものを食べている時は無口になると言うが、お話し好きの村田さんが一言も発さない。いつか春夏秋冬のキラキラ丼を全て制覇しようと村田さんと約束しお店を後にした。
いざ弁慶鮨さんへ。
はらこが輝くキラキラ丼。宮城県の郷土料理はらこ飯である。
南三陸さんさん商店街のすぐ横には防災対策庁舎の震災遺構が保存されている。赤い鉄骨のみを残し、何度もテレビで見た映像と悲しい出来事が頭を過った。ここでは15mの津波が押し寄せたという。本来、町があったところは全て広大な更地となり、信じられない光景が目の前に広がっていた。防災対策庁舎は一時は解体する方向であったが2031年まで保存し改めて解体か否かの結論を未来の大人達に委ねる事が決定している。
震災当時この防災対策庁舎で、ぼくと同世代の女性が津波が押し寄せる直前まで防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になってしまった。この防災無線により多くの町民が助かった事、そして最後まで叫び続けた彼女を一生忘れない。
ジジイ一行は45号から398号に入り大川小学校跡を目指した。次第に天気も回復し久々の日差しがジジイに降り注ぐ。社長のアロハシャツも海をバックにすこぶるツーリング映えしている。急な上りは自転車から降り二人仲良く歩いて登る。ムキになって漕ぐ必要はジジイツーリングには必要ないのだ。
だがしかしジジイには金の余裕があっても、本日の時間にあまり余裕がない。それでもコーヒータイムは欠かさないのだ。
着ている人も一緒にいる人もテンションが上がるサイクリストアロハ。
ジジイに無理は禁物。登りは仲良く歩く。
至福のコーヒーブレイク。ちょっと時間がヤバくなってきた。
日も傾き替えた頃、河川敷に大川小学校跡地が見えてきた。すると社長が「ここはだめだよ・・・」と、つぶやいたのが聞こえた。
現地に到着しあまりの惨状と過去の悲劇に息を呑む。地震発生後”大人の指示”により校庭に留まり続けた全校生徒の約7割が津波に巻き込まれ命を落としてしまった。かつて小学校周辺は津波襲来の歴史がなかった事が津波を想定した避難を鈍らせたという。調べれば調べるほど悲しい事実が浮き彫りになる。
社長は小学校の中に入っていく事が出来なかった。ぼくは入った瞬間から涙が止まらなかった。真っ赤に焼ける夕日が北上川に沈んでいこうとしていた。
何度見ても辛くなる大川小学校跡地。同じ悲劇が起こらぬように・・・。
辺りは暗くなり398号を走行中、社長がポツリと呟いた。
「こんな言い方も良くないけどさ、大人は自己責任で死んでもしょうがねぇけど、子供がいっぺんに死ぬのはよくないよな。」
ぼくは、ただただ頷く事しかできなかった。
ジジイ一行は女川の宿「華夕美」さんに到着した。万石浦を見渡せる露天風呂に三人で浸かりながら、ぼくはジジイ達に東京で震災が起きたらどうするか何度も質問をしていた。
やはり亀の甲より年の功。海と地形に詳しい社長、土木技術者を務めた上げた村田さん。ジジイの答えはうんと為になった。
人生の為になるお話をたくさんしてくれた村田さん。
ぼくは子供の頃に戦争の映画やアニメを親に何度も見せられ、二度と起こしてはならない人災であると叩き込まれている。しかし津波は何度も起きていた自然災害にも関わらず、風化してしまっていた事が現状ではないだろうか。
東日本大震災は甚大な被害だけでなく、我々に大きな教訓と膨大な資料を残したはずだ。津波が関係ない地域に住んでいても、将来自分の子や孫が海の近くに移住するかもしれない。辛い映像や資料かもしれないが、ぼくは積極的に子供に伝えていきたいと思う。
女川の商店街で買った「アワビつぶ貝」がうんと美味しかった。
次回、DAY4 女川〜仙台編【最終回】
また時間のある時に書きたいと思う。
text/photo rocky
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