【DAY1】10月10日(水)宮古→釜石
【DAY2】10月11日(木)釜石→気仙沼
【DAY3】10月12日(金)気仙沼→女川
【DAY4】10月13日(土)女川→仙台
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【DAY2】 2018年10月11日(木) 釜石〜気仙沼
朝食を食べ終え新聞を読んでいる社長。なんだか懐かしい風景だ。自分の父親を思い出す。自転車に旅道具を装着し出発の準備が整った。
今日もあまり天気がよろしくなさそうだ。まずは釜石市魚市場へ。村田さんと真新しい市場や堤防を眺めていたら、いつもの事ながら社長とはぐれてしまった事に気づく。のっけから広い市場ですれ違いが続くハプニングが発生した。
この風景に謎のノスタルジーを感じる。
自転車に荷物をパッキンしAM8:00 釜石を出発する。
この直後、社長を見失う。魚市場と同じ色の為、同化してしまったのだ。
ようやく合流し釜石観音を遠くから眺め国道45号を南下し唐丹港を目指す。
さっそくのアップダウンに村田さんもきつそうである。すると後方を走る社長から漕ぎ方の指導が入るのだ。なんという熱血指導。しかしツーリング中に膝がイテー腰がイテーとなっては走る事すら出来なくなってしまうので、体力を温存できる走り方を身に着けたい。それでも村田さんが自転車を始めた頃に比べると、ずいぶんと長距離を走れるようになっている。
後ろから社長の漕ぎ方指導が入る。
山を登り切ったところに仮設住宅群が見え非常に切ない気持ちになった。周りに店もなく買い出しは山を下るのだろう。唐丹町に立ち寄り今は綺麗になった漁港や駅を周った。
唐丹駅もまた津波で流され、南リアス線は全線で不通となり2014年4月5日吉浜駅から釜石駅復旧に伴い営業を再開している。駅の向かい側には大きな防潮堤が完成していた。
ずいぶん高い所に仮設住宅群があり、非常に胸を打たれる瞬間であった。
高い所から眺めると漁港や防潮堤が新しい事が良く分かる唐丹港。
防潮堤がより高く増築されている事に驚いた。
唐丹港から淑女と一緒に坂道を歩く。
45号から9号に入り小石浜へ向かう。きついアップダウンを乗り越え、恋し浜駅が見えてきた。
元の名は小石浜駅だが地元ホタテブランド「恋し浜」にちなんで改名したようだ。駅前はピンク色のポストがあり、発見時にはいい歳こいてカワイイーと連呼していた。ジジイ二人とピンクのポスト、そしてたまたま咲いていた一輪の薔薇がなんとも哀愁漂う空気感となった。
駅待合室にはホタテ貝を絵馬にした殻が多数吊られ、ホームには幸せの鐘がある。次回はキレイなおねえさんと一緒に来たいと切に願うのであった。
愛の磯辺 恋し浜
ホタテ貝の絵馬はうんとカワイらしかった。
インスタ映え間違いなしのピンクポスト。恋を投函する。
そこら中に名産のホタテがあしらわれている。
漁船の操縦体験もできる。舵を握る村田さんは本物の漁師に見える。
ジジイ一行は大船渡市魚市場まで向かい昼飯タイムである。「れすとらん海」さんで村田さんは、看板メニューである海鮮尽くしの「朝日丸」をチョイス。社長は海鮮たっぷりの
ラーメン。ぼくは日替わり海鮮丼。
灯台の形をした箸置きが妙に喜ばしい。海を眺めながらのランチだ。
れすとらん海さんの看板メニュー「朝日丸」
「日替わり海鮮丼」三陸の海鮮は全て旨い。ホントに。
食後は陸前高田に向かい悲惨な光景を目の当たりにした。道の駅高田松原、奇跡の一本松そして広大な更地となってしまった陸前高田の市街地。ぼくたちは呆然と眺め、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
45号を走っていると陸前高田には今でも多くの震災遺構が保存されている。そしてこれら建物内では一人の犠牲者も出ていないという。その中でも津波到達時間がもっとも早いエリアにあった気仙中学校は屋上まで浸水しているにも関わらず全員無事だったそうだ。
校長が気仙中学校に赴任した際、当時の津波を想定した避難マニュアルに不安を覚え、独自で高台へのルートを調査し、チリ地震を経験した住民を講師に招くなど、事前のマニュアル改定と日頃の避難訓練が全生徒の命を救ったという。
気仙中学校を目の当たりにした時には胸が張り裂けそうな気持だったが、この情報を知り正直に嬉しい気持ちでいっぱいになった。
道の駅高田松原は上部をわずかに残し水没。上部では3人の命が助かる。
約7万本の松は奇跡の1本松を残し、全てなぎ倒されてしまった。
屋上まで津波に飲み込まれた気仙中学校。屋上には到達水位を示す看板が立っている。
広大な更地となってしまった陸前高田の市街地。15mの津波が押し寄せたという。
陸前高田市から宮城県に入ると間もなく大理石海岸へ到着した。観光地でもある大理石海岸も工事中ではあったが、海から白い岩がニョキニョキと飛び出し、天気が良い日には青い海と白い岩のコントラストが絶妙であっただろうと想像する。ここから切り出された大理石は東京日本橋の三越でも使用されたそうだ。
ついに泣き出した雨雲は容赦なくジジイの体力を奪う。急がず焦らず、しかしへとへとになりながら本日の宿「気仙沼プラザホテル」さんへ到着する。到着するなり傘を差しだしてくれたスタッフさんに礼を言いチェックインを済ませる。
早速、地元の居酒屋「ぴんぽん」さんへ向かった。居酒屋までの道は地図とは異なり少々迷ってしまった。インターネットの地図は新しい道を更新しきれていないのである。
ここでぼくは人生初となるホヤを頂いた。想像していたよりもみずみずしく全く臭みがなかったのだ。チン刺というマグロの心臓の弁がこれまた珍味で、内臓系が大好物の村田さんも旨いと舌鼓を打っている。社長といえば芋焼酎ジョッキ300円の安さと美味さに太鼓判だ。味にうるさいジジイも満足したようなので、津波の爪痕が残る道を、思い思いに歩きホテルへと戻った。
高台にそびえ立つ「気仙沼プラザホテル」さん。
南国フルーツのような色鮮やかなホヤの酢の物。
地元の海鮮をふんだんに使用した刺身の盛り合わせ。
プラ食器の秋刀魚刺しが漁師町を彷彿とさせる。
「居酒屋ぴんぽん」さん前にて。おもしろい名前のメニューが並ぶ。ジジイも仲良く並ぶ。
そして元気なジジイ達は部屋でも飲み始める。ビールが足りないと社長がロビーに買い出しに行ったきり帰って来ない。心配していると社長が目を真っ赤にして戻ってきた。かと思ったら突然興奮した様子で、気仙沼で起きた震災直後の話を始めたのである。どうやらスタッフさんに話を聞いていたらしい。
部屋でも呑む元気なジジイ。この後社長が泣きながら戻ってくる。
以下、社長がホテルスタッフから聞いて来た震災当時の話である。
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震災直後、漁師が船を沖に逃がそうとするが津波の前兆で潮が引き、すでに船を出すことができなかった。
海岸沿いに並んでいた船舶燃料用のタンクが倒壊し、海に大量の重油が漏れ、重油が混ざった津波は燃えた瓦礫により引火し、気仙沼は言葉通り「火の海」となった。
津波から逃れるためにビルの屋上に避難していた人々は、燃えた津波によって火災が発生し屋上で命を落としてしまう。
気仙沼プラザホテルは海に面した場所ではあるが高台の為、津波の被害を免れる事ができたが、ただただ流される気仙沼を見ている事しかできなかった。
そして震災で家族を失ったスタッフが「生きている意味がない」と何度も言っていたという・・・。
震災後ホテルは、警察や消防の基地となり、毎日肩まで泥まみれになって帰ってくる隊員をサポートしていたようだ。
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そしてなるべく大切な人と一緒にいる時間を増やそうと心に決めた瞬間でもあった。
次回、【DAY3 気仙沼〜女川編】
また時間のある時に書きたいと思う。
text/photo rocky